「他人と自分とは別個の人間でそれぞれ違う考えがある」ということを万人に理解して欲しいという矛盾した願い
他人と自分とは別個の人間でそれぞれ違う考えがある。
同じ国、同じ世代、同じ大学、同じ性別、同じ・・であってもやはりそれぞれ別なのだ。完璧に分かり合えるなんてことはない。互いに違う人間であるということを前提にコミュニケーションを取らなければならない。だからこそ相手に何かを望むときはきちんと口に出すべきだ。
日本にいたとき、そう思って過ごしてきました。
それに比べると今のベトナムでの生活は非常に居心地がいい。お互いに違う存在であることを前提とした生活を送れるからです。相手に期待するところが少ないからです。はなから期待していなければ苦しむこともありません。
結局、日本にいたときは、「他人と自分とは別個の人間でそれぞれ違う考えがある」と掲げながらも、同じ国・同じ文化で育ってきた人間が「他人と自分とは別個の人間でそれぞれ違う考えがある」ということを理解しないことを許せていなかったということだと思います。ひどい矛盾です。
この構造を理解した今、どうするかなのですが、実際のところ、まだ「他人と自分とは別個の人間でそれぞれ違う考えがある」ということは万人に理解して欲しいという期待を持ち続けようと思っています。ここをきっぱり諦められればすっかり楽になると思えるのですが、諦めたふりはできても結局諦められないそうにないからです。
ただ、自分自身も他人に過分に期待しがちな人間の、矛盾を抱えた願望を持った人間の1人なんだということ自覚をもって生きていこうと思います。
これからは日本人の中の「他人と自分とは別個の人間でそれぞれ違う考えがある」ことを理解しない人間に対しても以前より少しは優しく接することができるような気がしています。
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この記事を書くきっかけになったのが、けんすうさんのFacebookでの投稿です。
完全に例え話です。たとえば、友達に1万円を貸して、返ってこなかったとします。その時に「あいつは返さなくてひどいやつだ!」って思うのは結構、酷だと思うんですよね。というのも、返すつもりがないのか、それとも親が病気でどうしても必要なのか...
Posted by Kensuke Furukawa on 2015年9月1日
そもそも、人間は、お互いのことを100%理解することはできないわけです。どんなに仲がいい夫婦でも、せいぜい10%くらいだと言われています。 となると、ほとんどわかっていない前提でやりとりをするのがよいと思っていて、相手のことをわかっているだろう or わかってくれるだろう、でやるのは、人間関係に対して怠慢すぎるのかなと。
このあたりにはそうだよなそうだよなと共感しながら読んでいたのですが
「人と人は分かり合えないから、何を考えているかわからないけど尊重しよう」という感じなのですが、そうは思わない人もいたりして、興味深いなあ、と思うこの頃です。
と最後が締められているのを見て自分と違いに気が付いたのです。自分は「そうは思わない人」に対して「興味深い」で留めておくことができていないなと(口ではそう言えるかもしれませんが)。