日本文化を知っていようがいまいが、日本人は日本人
前回 こういう記事を投稿しました。
しかし、心のもう一方で、別に日本っぽい「芸」がなくとも十分日本人なんだとは思っています。そんなことを思っているから何も身に着けずに飛び出すことになってしまったのかもしれませんが、坂口安吾も同様のことを言っていたので勝手ながらそれもまた良しとしておきます。
日本文化を知っていようがいまいが、日本人は日本人である。
しかし、いわゆる日本文化や日本のポップカルチャーを押さえていた方がより楽しめる。
というのが僕の考えです。
坂口安吾の作品は青空文庫で公開されているので後ろで共有しておきますね。
では また。
一 「日本的」ということ
僕は日本の古代文化に
就 て殆んど知識を持っていない。ブルーノ・タウトが絶讃する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田 も鉄斎も知らないのである。況 んや、秦蔵六 だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑 み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代りには、猥 りに酔い痴 れることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。
けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない(然し、ほかの理由で、貧困だという内省には悩まされているのだが――)。(中略)
然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ
距 りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。