テストが便利すぎて。。。テストを課す側になってわかったこと
今週のお題「テスト」
教師の問題は どうやったら生徒が勉強するかどうか。
いつも悩む。
「テスト」はその救世主だ。
「テスト」と言えば、学生は目の色を変える。ベトナムでもそうだ。むしろ、日本よりも学歴重視なので、テストにかける思いは強い。
そう、だから 教師(私)は、学生に勉強させるためについつい「ここは、テストに出すよ」とか言ったり、小テストを頻繁に行ったりしてしまう。
「テスト」は学生を勉強に向かわせる、魔法の道具なのだ。
しかし、世の中、良い面だけのものなんてそうそうない。
これだけ便利な「テスト」は、相応のデメリットがあると、私は感じている。
「テスト」による動機付けに依存すると、
学びの楽しさを伝えること
学びの楽しさが伝わる授業をつくるべく努力すること
を怠ってしまうようになる。
気がつけば、学生は学びの楽しさを知らぬ点取り虫となり、教師は創意工夫の欠けた無味乾燥な印刷機のような存在になっているかもしれない。
そして、「テスト」をちらつかせて勉強させることは、「脅し」だ。
自分の力を試す機会や努力する目標として「テスト」は有用だけれど、「脅し」の手段にするのは、私は、嫌だ。
学生のとき、退屈な授業をしながら「テスト」「テスト」と連呼する教師が大嫌いだった。でも、今の私はどうだろう。
言葉が通じないことを言い訳に、「テスト」に頼るようになってしまっていた。
これからは心を改めて、授業自体の学びの質や楽しさを追求していこう、と強く思う。
補足 【学生向け】「どうして、教師は学生に勉強して欲しいのか」
学生が良い成績を出して、良い進学・就職先に行けば、学校や教師の評判があがるから? もちろん、それもある。(そればかりの教師がいることも事実)
しかし、それだけではない。
学生に予習・復習を強く望むのは、
学生と教師がともに授業の時間を最大限に活かし、学びの楽しさを味わうためだ。
学生がうちで勉強してくれれば、
教科書を読み上げるだけ、黒板を書き写すだけの退屈な授業などせずに、
応用問題や関連するエピソード(雑談)に時間をつかうことができる。
そのことを私の例で説明してみる。
私はベトナムで日本語講師をしている。
私はベトナム語ができないし、学生は英語ができないので、双方の間にはいるのは
学生の拙い日本語である。学生の日本語力が授業の幅のボトルネックとなっている。
学生が順調に語彙や文法を身につけていけば、それを前提に新たなことを学ぶことができる。ある程度のレベルに達すれば、私と「会話」「対話」できるようになる。そこまで辿り着ければ、学びは加速度的に進む。「会話」「対話」は机に向かう勉強とは違い、コミュニケーションそのものであり、楽しみが大きいからだ。
しかし、語彙や文法が疎かだったどうだろうか。学生は、言うことが理解できない部分が多くなる。授業時間のほとんどが意味不明、となる学生も出てくるだろう。集団授業の場合、その問題に気付いても、毎度立ち止まってあげることは非常に難しい。
授業が理解できるレベルまでには、到達していて欲しい、というのが教師の切なる願いなのだ。
テストという「脅し」を使ってでも 学生に勉強させたい教師の気持ちがわかっていただけただろうか?
もちろん、学生だけの責任ではない。教師が工夫できること、努力すべきことは無限にある。
ただ本音として、「学生、勉強してください」と思ってしまうのです。
以下 参考に
「反転授業」 先駆者アーロン・サムズさんが語るその効果と課題
「反転授業」とは 「学校での授業⇒家での復習」という形から、「家で予習⇒学校で授業」と学習プロセスを逆転させたものです。この逆転を可能にさせる肝が、動画などのICT教材。家で予習してきた知識を前提に、学校では応用問題や実験、議論など教師がいなければできない・施設がなければできない・集団で行うことが必要な取り組みに集中する。このことが時間当たりの学習の効果を劇的に伸ばす。
課題としては、予習をしてこなかった生徒がおいてきぼりになることや、ICT器具をすべての生徒に平等にいきわたらせること、予習教材の質などがあげられる。